朝日放送テレビ制作・テレビ朝日系列『世界の村で発見!こんなところに日本人』は「「型破りな大女優が波乱万丈の日本人探し!3時間スペシャル!」」と題して元タカラジェンヌの真琴つばささんが、南米・ブラジルでサッカー元日本代表選手・田中マルクス闘莉王さんの祖母・田中照子さんと出会います。
波瀾万丈な人生を送る日本人捜しの旅ということでブラジルのパウメイラ・ド・オエスチという素朴な田舎町に住むサッカー元日本代表選手・田中マルクス闘莉王さんの祖母・田中照子さんと日本人の波乱の人生について当たり障りなく紹介してみたいと思います。
元タカラジェンヌの真琴つばささんは、前回の2013年の時も日本人捜しの旅に参加していたのですが、、超過酷な旅路に「もう二度と行きたくない!」と思って2度と出演はしないと決めていたそうです。
しかし、今回の日本人捜しの旅の内容を聞いた時に元タカラジェンヌの真琴つばささんは、「祖父がもしかして移民としてブラジルに渡っていたかもしれないんです。そこにご縁を感じて、孫である私がブラジルに行ってみたいと思って」と快諾したそうです。
今回の「波瀾万丈な人生を送る日本人捜しの旅」は、一体どんな過酷な旅が待ち受けているのでしょうか。
ブラジル移住した祖母を持つ元サッカー日本代表選手の田中マルクス闘莉王はどんな人?
田中マルクス闘莉王さんは、2003年10月に日本国籍を取得してブラジルと日本の2重国籍者で、日本国籍名では「田中マルクス闘莉王」は、父親が日系ブラジル人で祖母・田中照子さんの次男・パウロ隆二さんと母親がイタリア系ブラジル人のマデルリ・マリア・ムルザニさんの間にブラジルのサンパウロ州の生まれです。
2歳の誕生日に自らプレゼントをボールをリクエストした田中マルクス闘莉王さんは、12歳の時になると「プロになりたい」と言い出して朝4時までサッカーをしていたこともあったそうです。
負けず嫌いで周りを怒鳴りつけることから”2人目の監督”といわれることがある田中マルクス闘莉王さんは、父親のパウロ隆二さんから受け継いでいるそうです。
責任感の強い性格で教員を経て弁護士になった父親のパウロ隆二さんは、「自分の親も、自分自身も10歳から仕事をした。早いうちから社会の中で尊重すべきものを身につけることが大事だ」という理由から13歳になってから田中マルクス闘莉王さんを事務所で働かせていたそうです。
午前8時から午後5時半まで働いた後、自転車に乗ってサッカーの練習に向かい、練習が終わると夜間学校に行き、少年時代から困っている友達を見ると放っておけない性格から自分のシャツや運動靴をあげてしまうこともあったそうです。
田中マルクス闘莉王さんは、現在も「サムライ闘莉王」や「闘将」というニックネームで現役のプロサッカー選手として活躍しています。
日本国籍を取得するとすぐに山本昌邦監督率いるU-23日本代表に選出され、負傷を繰り返しながらも2008年からの2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選では8試合に全試合フル出場し、貢献したことからアーセン・ベンゲルから「日本代表の最高の武器だった」と絶賛された選手でした。
実際に守備力に加えて高い得点力も備える超攻撃的リベロなプレースタイルで優れた守備力と同時に攻撃力も兼ね備える選手として、スポーツやスポーツ文化に焦点を当てたウェブサイト「Bleacher Report(ブリーカーレポート)」の「得点力の高いディフェンダー世界トップ20」の特集で世界一に選出されました。
田中マルクス闘莉王さんが、最も尊敬する人物は父親ですが、日本出身の祖父母に子供の頃から「実るほど 頭を垂れる稲穂かな」という言葉や「お世話になった皆さんのご恩は絶対に忘れるなよ。日本の役に立つ人になれ」と言われて育ったそうです。
田中マルクス闘莉王の祖母・田中照子が語る日本への熱い思いに涙した内容とは
富山県で生まれた田中マルクス闘莉王さんの祖母で一世の田中照子さんは、わずか5歳の時に日本からブラジルに移住したそうです。
ブラジル最大の都市・サンパウロの北西約650キロに位置する南マットグロッソ州にほど近い聖州で人口1万人ほどの小さな町「パウメイラ・ド・オエスチ」に2009年4月に91歳で亡くなった夫・義行さんと共に住むようになって現在で64年目を迎えます。
2010 FIFAワールドカップ・グループEの決勝トーナメント進出をかけた日本対デンマーク戦(2010年6月24日)でパウメイラ・ド・オエスチにある最も大きいレストラン「サベラナ」で巨大スクリーンの前で出場した孫と一緒に君が代を思い切り歌うことができた事が、涙が出るほど嬉しかったとNumber758号で語っていました。