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竹久みち(岡田茂の愛人&女帝)三越事件21億円贋作の真相と現在の娘や若い頃画像は

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毎日放送『1番だけが知っている』では「一流百貨店がなぜ…21億円偽物だらけの美術事件簿の真相」と題して、創業三百余年の老舗百貨店の「三越事件」の当時を知るデヴィ夫人が真相を初告白や三越の帝王・岡田茂さんを籠絡した愛人で女帝・竹久みちさんが特集されます。

 

日本橋三越本店で開催された古代ペルシア秘宝展で出展されていた作品のほとんどが贋作が判明して日本中に衝撃が走った三越事件の裏にあった三越の帝王・岡田茂社長の異常な独裁体制と百貨店を牛耳った愛人の正体”三越のシロアリ”こと竹久みちさんについて当たり障りなく紹介してみたいと思います。

三越の帝王・岡田茂の衝撃の独裁体制とは

1914年8月3日、京都府で生まれた岡田茂さんは、慶應義塾大学文学部を卒業した1938年に三越に入社し、宣伝部長を経て銀座店店長になってからヤングファッションを中心とする営業政策に成功。

当時はマクドナルド創業者のレイ・クロックから販売権を獲得したいと色々な日本の大企業がこぞって商談するも成立する会社がありませんでしたが、貿易会社の藤田商店社長・藤田田さんがフランチャイズ権を獲得。

当時三越の専務だった岡田茂さんの承認で1971年7月20日に銀座三越店内にマクドナルド1号店をテナント入りさせたことで当時の三越社長の松田伊三雄さんに高評を得て日本の小売業として初めて売上高が1000億円を突破。

当時の三越社長の松田伊三雄さんに高評を得た銀座三越店内にマクドナルド1号店をテナント入りにはドラマがあります。(「マクドナルド1号店オープンにもドラマがあった」を参照)

1972年に三越社長・松田伊三雄さんの後任で数十億円の売り上げに貢献したことから社長に就任した岡田茂さんは、社内での公私混同が問題とされるようになり、社内では「岡田天皇」と呼ばれるほどのワンマン体制を築くために真っ先に常務だった坂倉芳明さん*が粛清の槍玉に挙がり、意に沿わぬ人物を次々と粛清し始める。
三越事件で三越の帝王・岡田茂が解任された後に坂倉芳明さんが、その収拾を図る役割を期待されて常勤顧問として三越に復帰して1986年に三越の社長就任する

1977年、パリ三越7周年を祝い大パーティーをベルサイユ宮殿で開催し、招待客は取引業者など1000人以上を呼んでいます。

三越は創業310年を記念して1982年8月24日から日本橋本店7階で催した「古代ペルシア秘宝展」で47点(総額21億円)を展示するだけでなく即売会も兼ねており、一部の展示品は売約済みになるほど好評だったそうです。

三越の帝王・岡田茂さんは、利益率が高いことから美術品の展示と販売に力を入れて年間300展実施を目標にしたことで強引な押しつけ販売のやり方が度々問題になりました。

記者会見では「待ってたって売れないんだから商品は、そういう積極的な文化活動を伴ったこととか、いろんなことをやらなきゃなんないわけですよ。スーパーと違うんだから。だから我々が言っているのは一般消費者に対してそういう展開はどんどんやっていく訳ですよ!」と強気に押し切っていました。

当時の三越は大丸に負けていたが大々的な催し物をやって大丸を抜いて日本一にしたのは、三越の帝王・岡田茂さんという事実があり、店内のを回るにも大名行列のようにみんなが側について歩くほどの社長に就任して約10年で独裁体制を築き上げました。

人事をエサに部下を手なずけて社員という社員は完全奴隷で出張に行った際は部下に体を拭かせるなど絶対的な主従関係をしていたとも言われ、側近の専務は忠犬ハチ公と呼ばれていました。

完全に自分のライバルになる人や逆らう人を切って忠犬ハチ公のように忠実な人ばかりを集め、独裁ぶりを加速させたのが、後の三越の女帝と呼ばれたアクセサリーデザイナーの竹久みちさんとの出会いでした。

 

マクドナルド1号店オープンにもドラマがあった

当初米国本社からは、アメリカと同様な郊外型の店舗で展開するよう指示があった(交通量の多い神奈川県茅ヶ崎市を希望したといわれる)。しかし、1号店として郊外でなく東京都中央区銀座にこだわったのは、「(開店当時は)銀座が流行の情報発信基地だ、銀座で話題になれば商売も必ず成功する」と踏んだ藤田の発案による。

また、1号店として三越にこだわったのも、交差点角という絶好の立地条件から。「ここしかない」と、藤田は三越まで直談判に行くが、当時藤田と掛け合った銀座店店長で後に社長となる岡田茂から、「三越の営業の邪魔にならぬよう、火曜日朝に開店できるなら出店してもらっても構わない」と無理難題を突き付けられる。当時、銀座三越は月曜日が定休日で、これは『日曜日の閉店時刻(18時)から火曜日の開店時刻(10時)までに、水周りを含め全ての作業を終わらせた上で開店させることができるなら出店を許可する』といった意味であった。

作業できる時間は実質40時間しかなかったが、どうしても銀座三越にこだわった藤田は、都内のとある空き地で銀座三越の出店予定スペースを再現させ、作業員に何度も何度もシミュレーションさせた。最初は60時間近くかかったが、練度が上昇すると、仕舞いには39時間足らずで作業を終わらせることに成功した。

1号店として開店した店舗は、面積129m²と非常に小さな持ち帰り専門店で客席がなかった(後に移転)。当時の物価ではハンバーガー1個の価格がやや高額ではあったが、藤田の狙い通り、この店は大変な評判になり、日本各地に続々と店舗が作られるようになった。
https://ja.wikipedia.org/から引用

 

藤田田さんは、輸入雑貨販売店「藤田商店」と「日本マクドナルド」と「日本トイザらス」の創業者で遺産総額約491億円で歴代6位という凄い実業家で1972年に「ユダヤの商法 世界経済を動かす」という本を出版しています。

この本に突き動かされたのが、後のソフトバンクグループの孫正義さんです。

孫正義さんが高校1年生の時、アメリカに留学して何をすべきか藤田田さんにおアポなしで羽田空港から秘書に対し電話をかけそして「今から自分の言うことをメモ用紙に筆記し藤田さんに渡してください」と言います。

私は藤田さんの本を読んで感激しました。是非、一度お目にかかりたい。しかし藤田さんがお忙しいことは重々承知しています。顔を見るだけでいいんです。三分間、社長室の中に入れてくれればそれで良い。私はそばに立って藤田さんの顔を眺めています。目も合さない、話もしないということなら藤田さんのお邪魔にはならないのではないでしょうか?」

とメモを書いた秘書に対して「このメッセージが書かれたメモ用紙を藤田さんが見て、それでも〝会わない″というなら私は諦めて帰ります。ただし決して秘書のあなたが判断しないでください。」と言った後にメモが間違っていないか復唱させて確認した結果、約15分間面談が許可されました。

そして、その時の少年だった孫正義さんへのアドバイスとして「これからはコンピュータービジネスの時代だ。俺がお前の年齢だったらコンピューターをやる」と言っています。

 

創業三百余年の老舗百貨店の「三越事件」

創業310年を記念して1982年8月24日から日本橋本店7階で催した「古代ペルシア秘宝展」で開催2日目に紀元前5世紀に作られたというリュトン杯を見た彫金師が、自分の作品があると気づきました。

数ヶ月前に古美術店「無尽蔵」がペルシアの古美術品をモチーフにした作品を飾るためにと横浜の彫金工房に訪れて依頼されて55万円でリュトン杯を製作したそうですが、古代ペルシア秘宝展での金額は1億6000万円でした。

展示されていた古代ペルシア秘宝展に横浜の彫金師が作った作品がリュトン杯を含めて6点も展示されていました。

急いで依頼してきた古美術商に連絡するが連絡がつかずじまいで、彫金師は、美術展を主催する三越に連絡をするも何かの勘違いと取り合って貰えませんでした。

開催当初から「古代ペルシア秘宝展」の美術品は、贋作ではないかと疑いの声がありました。

その贋作を最初に見破ったのは、「点と線」や「砂の器」で知られている文豪の松本清張さんでした。

「古代ペルシア秘宝展」の開催される数ヶ月前に文豪の松本清張さん宅に持ち込まれていた美術品を意外な方法で贋作を見破ったのです。

かつて美術品に関する取材で聞いた「贋作は古くみせるために薬品が塗られているため、舌にピリッとくる」という話を思いだし、持ち込まれた贋作を見抜いたそうです。

そして、他の専門家からも贋作と疑惑の声があがっていましたが、三越は展示会を止めることはしませんでした。

「古代ペルシア秘宝展」の贋作疑惑が浮上しながらも美術展を推し進めていたのは、三越の帝王・岡田茂さんが完全なワンマンから「三越の天皇」と呼ばれていて誰も逆らえず、あまりにも権力者だったために見境がつかなくなってしまっていたと

「古代ペルシア秘宝展」の贋作疑惑を知った三越の帝王・岡田茂さんは、会社内部で再鑑定を求める声をクビにしてねじ伏せてしまいました。

展示会も残り2日となった1982年8月29日にとんでもない記事が世間を震撼させました。

その記事内容は展示物の大半は、作品を観に来た専門家や贋作制作者になってしまった彫金師たちが三越の知らないところで朝日新聞社に情報を提供して学者ら一致して贋作と断定と報道されて世間に知られてしまいました。

もちろん「古代ペルシア秘宝展」を主催している三越はその日のうちに謝罪記者会見を開くのかと思いきやペルシア秘宝展を企画した国際美術の渡辺力社長が口にした内容は・・・

「30年間この仕事に携わっておる者なんですけど絶対に現在も作品はよろしいという確信を持っております。アメリカンアカデミーの鑑定書を付けた作品も持っております。それの無い分につきましては私は三越様に対して欧米のしかるべき権威のある鑑定機関に委ねまして提出させて頂きたいと思います。それには自身がございます」

と、本物と断言しながらも入手ルートは企業秘密ということでした。

三越の帝王・岡田茂さんも広告の差し止めを盾にして記事を取り消すように圧力をかけていたそうですが、傲慢な三越の姿勢に報道合戦が加熱してしまいました。

そして、記者会見から2日後には、入手ルートが明らかになってしまいました。

展示作品のほとんどは、は国際美術の渡辺力社長がイラン人古美術商ネジャトラ・サカイらサカイ3兄弟から買ったものでした。特にイライ・サカイという人物は銀座の怪物と呼ばれて湯水のようにお金を使ってアメリカで美術商をやっていて頻繁に日本へ来て取引をしていたとデヴィ夫人が番組内で語られていました。

今までの贋作の行方を整理すると

彫金師が製作 →
彫金師に依頼した古美術店「無尽蔵」→
イラン人古美術商ネジャトラ・サカイのイライ・サカイ →
ペルシア秘宝展を企画した国際美術の渡辺力社長 →
三越

報道陣はニューヨークにいたイライ・サカイにも取材をするとイライ・サカイから

「私は何の商談か知らなかった。彼らは商品を本物だと勘違いしてしまったからこんな事が起きた」

と、三越側が本物と勘違いしたと主張したことで、国際美術の渡辺力社長が記者会見で「アメリカンアカデミーの鑑定書を付けた作品も持っております」といっていたアメリカンアカデミーは存在しないことが判明。

イライ・サカイも贋作であると認めたにも関わらず三越の帝王・岡田茂さんは、本物と一点張りによって報道陣から三越の帝王・岡田茂の闇が浮き彫りになっていくのです・・・。

「古代ペルシア秘宝展」の贋作事件によって三越の帝王・岡田茂さんの独裁経営体制の不満が充満していながらも岡田茂さんは、社長退任は頑なに社長の席を明け渡そうとはしませんでした。

三越事件から約1ヶ月後、1982年9月22日の取締役会で社長退任を回避するために三越の帝王・岡田茂さんは役員16名に対して取締役会議の1時間前に社長退任しないようにリハーサルをしていました。

しかし、1982年9月22日午前11時に取締役会議で監査役を含めて22名で三越再構築案を提出して終了すると思いきや、忠犬ハチ公と呼ばれていた専務から「岡田社長の解任を要求致します」と要求されて全員一致により三越の帝王・岡田茂さんは社長を解任。

実は、新聞に「岡田社長居座りへ着々」という情報も反岡田派による策略で取締役会議の3日前から裏切る側はリハーサルをやっていたのだそうです。そして1982年9月22日午後0時30分に緊急記者会見で三越の帝王・岡田茂さんは社長を解任は正式発表されたことで10年間の三越の帝王・岡田茂の独裁体制は終わりました。

独裁体制を崩壊させたクーデターは成功したことになります。

 

三越の帝王・岡田茂を籠絡した愛人で女帝・竹久みちとは何者?

岡田茂さんは社長に就任する前から仕事を通じてアクセサリーデザイナーの竹久みちさんと知り合っていました。

当時、宣伝広告部部長だった岡田茂さんの行動力のだけでなく即断即決なところに惹かれていた竹久みちさんでしたが、岡田茂さんも竹久みちさんの野心溢れる才能とセンスに惹かれてあっていました。

女性視点からアドバイスをして岡田茂さんの出世に貢献した竹久みちさんは、愛人関係になった立場を利用して三越の取引拡大を狙い始めるのです。

元週刊文春記者の大下英治さん曰く「竹久みちさんがいなければ、岡田茂さんは立派な経営者でした。竹久みちさんはシロアリと言われていた。三越の屋台骨がシロアリのように喰われてしまった」と解説しています。

愛人の問題を社内に持ち込んで愛人にだけ売り場を与えて売れもしないのに売れたように見せかけて竹久みちさんの意向が三越の経営を左右する状況を進めていきました。

竹久みちさんと出会って13年後の1972年4月に祈願を築き上げて社長に就任し、同年11月には予算5億円をかけて招待客1万3000人を呼んだ創業300年記念式典を日本武道館で開催し、演出全てを三越の帝王・岡田茂さんが行ったそうです。

岡田茂さんは社長に就任する前から仕事を通じてアクセサリーデザイナーの竹久みちさんと知り合っていました。

当時、宣伝広告部部長だった岡田茂さんの行動力のだけでなく即断即決なところに惹かれていた竹久みちさんでしたが、岡田茂さんも竹久みちさんの野心溢れる才能とセンスに惹かれてあっていました。

パリをはじめ、ロンドン・ローマ・香港など10点の海外支店を次々出店して守りの経営から攻めの経営にシフトしたように思えるのですが、竹久みちさんは三越に海外支店を作らせることで自身の会社との取引を増やそうという思惑がありました。

三越で取引する外国のもの全て竹久みちさんの会社を通さなければならない状態にして三越をだんだん私物化して売れない物を沢山入れてしまったことで最終的には経営が悪くなっていきました。

その理由は、竹久みちさんが不必要なものまで入れていたことにより在庫があまりにも多くなったから。

当時の海外商品の買い付け資金は500億円でその内の6割の300億円が竹久みちさんの会社経由の納入で160億円の売れ残っていたといわれています。

竹久みちさんの要求は、これだけで終わりませんでした。

竹久みちさん自身の会社の工場を人件費の安い香港で作って三越の自社ブランド「カトリーヌ」という婦人服メーカーを立ち上げて、竹久みちさんの会社で全て生産するという計画に三越の帝王・岡田茂さんは承諾してしまいます。

今までアクセサリー関連のみ扱わせていたのに「カトリーヌ」という婦人服メーカーを作ったことで竹久みちさんは、高額なデザイン料金やマージンを受け取っていました。

そして、売れない婦人服「カトリーヌ」の仕入れの多さに三越の社員も頭を抱え込むようになるだけでなく、文句を言えば各部署に女帝・竹久みちさんのスパイがチェックしてクビか左遷にして追放されると社内で広まっているほどの横暴降りだったようです。

三越の女帝・竹久みちさんは、学生結婚して1児をもうけるも義理の父親と反りが合わず離婚してシングルマザーになったそうです。

当時通っていたデザイン科の教授は竹久みちさんと

デザイン科の教授「君は、何を本当にしたいんだ?」

竹久みち「私は、何でもいいんです。とにかく有名になりたいんです」

というやりとりをしており、竹久みちさんはハッキリと有名になる強いこだわりを持っている人物だったようです。

実際、三越の女帝・竹久みちさんのために三越の帝王・岡田茂さんは、会社の私物化と言われても仕方が無いある催し「ヴェルサイユ宮殿貸し切りパーティー」を行いました。

招待客は1000人以上、三越から億単位の金が注ぎ込まれ、取引先の人間には礼服やパーティ券の押しつけ販売が問題になっていました。

 

デヴィ夫人は三越の帝王・岡田茂さんと女帝・竹久みちと親しい仲だった

番組内では、芸能界で1番の美術コレクターとしても有名なデヴィ夫人が、豪邸以外に所有している美術品の倉庫の中で中国人のお金持ちにはとられたくないとオークションで落札したカルロ・ニコリ作の「シバの女王」や1974年に発掘された秦の始皇帝のために製作されたといわれる兵馬俑*も持っている。
兵馬俑は20世紀最大の発見の1つとしてユネスコ世界遺産に登録されている

デヴィ夫人は、美術コレクター歴は55年ぐらいになるそうです。

デヴィ夫人は、赤坂の料亭で「古代ペルシア秘宝展」の贋作を見破った文豪の松本清張さんとご一緒したり、何度か会ったことがあるだけでなく主催されたこともあるそうです。

松本清張さんは、小説を書く前に徹底的に調べる方で、文豪の松本清張さんから(当時、スイスの銀行に口座を持っている人がいないことからスイスの銀行で使われる口座「ナンバーアカウント」について)取材を受けたそうです。

デヴィ夫人曰く、女帝・竹久みちさんの家にも伺った時には三越の帝王・岡田茂さんも勿論一緒にいた事や三越贋作事件について

「三越の帝王・岡田茂さんが完全なワンマンから「三越の天皇」と呼ばれていて誰も逆らえず、あまりにも権力者だったために見境がつかなくなってしまったんでしょうね欲に駆られて」

と、当時について振り返ったコメントをしていました。

デヴィ夫人と岡田茂さんが初めて出会った時は、岡田茂さんが銀座三越の支店長だったそうです。(1968年頃)

デヴィ夫人も三越が当時一番栄えたのは、岡田茂さんのおかげだと思っており、岡田茂さんの前ではパリの支店長であろうと誰であろうとペコペコして総勢で取り巻きが7~8人はいたそうです。

アクセサリーデザイナーの竹久みちさんがパリに来た時はご一緒したり、デヴィ夫人が東京に帰ってくる時は必ず一緒に食事をする仲でデヴィ夫人から見て竹久みちさんは、女性視点からアドバイスをして岡田茂さんの出世に貢献し、竹久みちさんは岡田茂さんの力を利用して自分の才能を伸ばして才能を発揮できる場所を岡田茂さんが提供しながら三越の利益に繋がっていったと語っていました。

三越の女帝・竹久みちさんのために三越の帝王・岡田茂さんは、会社の私物化と言われても仕方が無いある催し「ヴェルサイユ宮殿貸し切りパーティー」にもデヴィ夫人は出席しています。

当時の三越の女帝・竹久みちさんの服装は、昼は着物姿に透明の打ち掛けしていてスゴイと思ったそうです。

 

三越の帝王・岡田茂の息子と女帝・竹久みちの娘の現在は?


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