2017年6月2日、TBS系列『爆報! THE フライデー』では「芸能人の帰化問題&あの美女は今…大追跡SP」と題して紅白にも出場した外国人歌手が「日本人になりたい」と人生をかけた決断している夫婦デュオ「ヒデとロザンナ」の孫が6人もいる日本に来て50年になるロザンナさんが出演です。
今現在は、テレビ・ラジオ・ディナーショー・各種講演やイタリア家庭料理研究家としても活躍している傍らでロザンナさんは自分が亡くなった時は夫のヒデ(出門英)さんと同じ墓に入りたいと終活を兼ねて日本への帰化までの448日間を密着されたロザンナさんについて当たり障り無く紹介してみたいと思います。
Wikiより詳しい?ロザンナ・ザンボンのプロフィールと経歴・学歴
出典:
本名:ロザンナ・ザンボン・加藤
名前:ロザンナ・ザンボン
日本名:加藤 絽山奈
英語表記:Rosanna Zambon
生年月日:1950年7月3日
出身地:イタリア・ヴェネト州 スキオ
血液型:O型
身長:―cm
体重:―kg
スリーサイズ:B― W― H―
カップ:―
特技:剣道三段
職業:歌手、イタリア家庭料理研究家
子供:万梨音(長女)、加藤士門(長男)、加藤来門(次男)
配偶者:出門英 (1975年 – 1990年)
事務所:クリームカンパニー
ギターの演奏が得意だった父親と喫茶店を経営していた社交的な母親のもとで生まれたロザンナさんは、ビアホールでイタリアの大衆歌(カンツォーネ)を歌っていたそうです。
日本でミュージシャンをしていた叔父の勧めでイタリアの音楽学院を卒業した後に17歳で赤坂にあるナイトクラブ(キャバレー「月世界」グループ歌手として来日したロザンナさんは、叔父に頼まれて日本の童謡の中でも知られた楽曲のひとつ「七つの子」を覚えていました。
1968年にボサノバ歌手として活躍していたヒデ(出門英)さんが「ヒデとロザンナ」を結成しました。ロザンナさんは当初は日本での活動は半年だけの予定でしたが1968年10月15日にデビュー曲『何にも言えないの』のB面だった『愛の奇跡』がヒットしました。後にジャケットを替えA面扱いになりました。
※ロザンナさんは、ヒデ(出門英)さんに出会ってすぐに一目ぼれでした
1970年5月25日に発売した5曲目『愛は傷つきやすく』初のオリコンシングルチャート1位を獲得し、NHK紅白歌合戦に初出場を果たしてからも『ふたりの関係』、『望むものはすべて』、『追想』などヒット世に送り出しました。
1975年2月に結婚し、同年の9月10日に長男・加藤士門さんを出産。
1978年に次男・加藤来門さんを出産。
1981年6月30日に長女・万梨音(マリオン)さんを出産。
2017年3月30日付けで日本国籍を取得しました。
ロザンナの夫は結腸がんで亡くなっていた
1989年7月にNHKテレビ「思い出のメロディー」のリハーサル中に突然激しい下痢に襲われていったん症状は治まった為、仕事を継続して年末に検査結果で結腸がんと診断されるも夫のヒデ(出門英)さんには病名を伝えませんでした。
1990年1月に緊急入院して手術をしましたが、リンパ節や腹膜など転移が手の施しようがなかったそうです。
1990年3月にヒデ(出門英)さんは一時退院して3月15日に次男・加藤来門さんの小学校の卒業式に出席したり、3月17日のゴルフショップの新ブランド発表会の記者会見がヒデ(出門英)さんの最後の公の場になりました。
1990年4月に高熱により再入院し、結腸がんが肺にまで転移していることが判明して 1990年6月15日に大量吐血し意識不明の重体に陥り、2日後の1990年6月17日に入院先の東京都内の病院で47歳の若さで亡くなりました。
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