2016年5月8日、13年前は、茶髪の風雲児として最強弁護士軍団で一躍、脚光を浴びるきっかけとなった日本テレビ系列『行列のできる法律相談所』に「お久しぶりです!橋下先生!あの時どうかしてました!SP」と題して、8年ぶりに橋下徹さんが出演です。
封印したい過去映像・名場面(弁護士なのに出演者をイジり倒したり、北村晴男弁護士との激論バトル、番組の企画で制作したドラマでの刑事役など)大放出や政治家時代に共演NGと噂されているの評論家M(森永卓郎さん)が直接言いたいことがあると名乗り、対面した内容など含めて当たり障りなく紹介してみたいと思います。
Wikiより詳しい?橋下徹のプロフィール
出典:http://hashimoto-law-office.jp/
名前:橋下 徹(はしもと とおる)※1
生年月日:1969年6月29日
出身地:東京都渋谷区
出身中学校:大阪市立中島中学校
出身高校:大阪府立北野高等学校
最終学歴:早稲田大学政治経済学部経済学科
職業:元政治家、弁護士
法律事務所:大阪弁護士会
弁護士の登録番号:25196
所属政党:無所属 → 大阪維新の会 → 日本維新の会/大阪維新の会 → 維新の党/大阪維新の会 → 大阪維新の会 → おおさか維新の会/大阪維新の会
配偶者:高校の同級生(典子)
家族構成:妻、子どもが7人
芸能事務所:株式会社タイタン(2015年12月22日、タレント兼顧問弁護士として復帰を爆笑問題・太田光さんの妻・光代社長がツイッターで明らかにしました)
Twitter(ツイッター):@t_ishin
公式メールマガジン:http://hashimoto.president.co.jp/(毎週火曜配信)
直接討論が出来るサロン:https://synapse.am/contents/monthly/gekikara
※1本来の読み方は「はしした」。橋下徹さんの母親曰く「徹が生まれた時点で橋下(はしした)家との因縁(いんねん)を断ち切る意図のもとに「はしもと」と改めた」そうです
母親が苦労しながら家計を支え、小学5年の頃に大阪府吹田市に引っ越し、1年後には大阪市東淀川区の手狭な府営住宅へ移り住みました。小学6年生で身長170cm、体重65kgの体格だった橋下徹さんはかなり目立つ存在と東京出身の転校生ちうことで小学校では転校初日からいきなり同級生に殴られたそうです。
※小中学校時代は、体の大きさから「おっさん」というあだ名でした。橋下徹さん曰く「小・中学校ともに荒れた学校だった」そうです
中学時代の橋下徹さんは、成績も優秀だったようで「ワル」たちの「代弁者」として次第に存在感を増し、時には学校側との交渉の先頭に立つ事もあったそうです。
※放課後の教室で、車座になって橋下徹さんの言葉にうなずく生徒たちの姿に教師の間で「橋下塾」と呼ばれていたようです
中学時代からラグビー部に所属し、中学2年生でラグビー部のキャプテンになりました。当時の顧問曰く「1日の練習プランではなく、継続的なプランを立て、なぜその練習が必要なのかを理屈で部員に説明していた。急速にチームが出来上がっていった」と話しています。
※ラグビーを始めた理由は「一番ワルそうな部に入ったほうが安全だと思ったから」だそうです
高校時代もラグビー部に所属し、3年生時、全国大会に出場したラグビー部で通常8人で組むスクラムを7人に減らし、余った1人が素早くボールを外に蹴り出すという戦術を考案しました。ラグビー高校日本代表候補に選ばれ東西対抗にも出場しています。
※名前の字から「ハシゲ」と呼ばれていました
日本テレビの『全国高等学校クイズ選手権』に出場したことがあり、地方予選で敗退したが、放送には映っていました。
高校時代の成績は芳しくなく、現役時代には早稲田大学を2学部受験しましたが不合格だったため、1988年3月、大阪府立北野高等学校を卒業後、典子さんは神戸女学院へ進学しましたが、橋下徹さんは一年間の浪人生活。翌年(1989年)、早稲田大学政治経済学部経済学科に入学しました。
橋下徹さんが早稲田大学に進学が決まり、帰省した時に典子さん(神戸女学院2年生)に連絡を取ったのがきっかけで交際が始まりました。
出典:http://selfyoko.exblog.jp/
典子さんは、進学のために上京する橋下徹さんと離れたくないと神戸女学院の籍を残しながら一緒に上京を決め、典子さんの両親から同棲には反対されましたが、勘当されても構わないと駆け落ち同然で風呂もトイレもない6畳1間のアパートで同棲を始めました。
※典子さんは、は東京との往復生活が続く中、留年することがなく神戸女学院を卒業しています
学生ビジネスで不渡手形をつかまされ、訴訟を起こすといった経験をきっかけに、法律家を目指すようになり、早稲田大学政治経済学部を卒業した1994年に司法試験に合格しました。典子さんは、早稲田大学界隈の本屋などでバイトをして生活費を稼いでいたそうです。
司法修習を経て1997年に弁護士になった橋下徹さんは、
1995年10月に大阪府立北野高等学校の同級生の典子さんと結婚しました大阪の樺島法律事務所に入り、「同和地区に住んでいたけど私は同和じゃなかった。だから、私は同和問題はやりません」と言い放ち、部落差別の解消を目的に標榜している同和団体「部落解放同盟」の朝田善之助派が起こした京都市営住宅の家賃値上げ反対訴訟に参加拒否しました。
1997年、第1子・長女が誕生しました。
1998年、橋下徹さんが代表となり、示談交渉による解決を看板に「橋下綜合法律事務所」を開設しました。
※大正時代に築かれた日本最大級の遊廓と言われた最後の色街ともいわれる飛田新地の料飲組合の顧問などもしていたそうです。
1999年、第2子・長男が誕生しました。
2001年、第3子・二女が誕生しました。
2003年、第4子・次男が誕生しました。
2003年「行列のできる法律相談所」にレギュラー出演を機に知名度を上げ、注目されるようになりました。
2005年、第5子・三男が誕生しました。
2006年6月5日、第6子・三女が誕生しました。(ベストファーザー授賞式前日)
2007年8月3日、第7子・四女が誕生しました。
2007年12月12日、大阪府知事選挙に出馬することを表明し、183万2857票を獲得し当選しました。同年2月6日に第52代 大阪府知事に就任しました。
※在任期間は、2008年2月6日~2011年10月31日
第19代 大阪市長
【編集中です】
森永卓郎は橋下徹からバカコメンテーターと呼ばれたほぼ元祖?
2015年12月18日に放送された読売テレビ『情報ライブ ミヤネ屋』では、同日に大阪市長の任期を満了し、政界から引退した橋下徹さんに対して森永卓郎さんは
「私、橋下さんから“バカコメンテーター”と呼ばれたほぼ元祖なんです。自由になられたので、ぜひコメンテーターとして戻って来て激論をしてみたいと思います」
と呼びかけていました。
そもそも、きっかけは2011年12月28日に放送された朝日放送の『キャスト』に当時、橋下徹大阪市長が中継で出演し、大阪市役所の解体に賛成か反対かを、コメンテータ全員がフリップに×(反対)書いた事から始まりました。