テレビ朝日『あいつ今何してる?』では、史上初のゲストのことを知らない同級生として芸歴40年超のベテラン芸人・間寛平さんの剣道部を立ち上げて文武両道だった大阪市立加賀屋中学校時代にライバル視していた同級生・藤井繁正さんの現在が特集されます。
京都大学に進学したらしいと間寛平さんの記憶から番組が調査したところ番組史上初の衝撃的展開になり、なぜ間寛平さんを知らない真相と現在の職業や結婚相手、想像を超えたドラマチックな人生について当たり障りなく紹介してみたいと思います。
同級生・藤井繁正の現在の職業と結婚相手は?
間寛平さんの剣道部を立ち上げて文武両道だった大阪市立加賀屋中学校時代にライバル視していた同級生・藤井繁正さんに会うために番組スタッフは飛行機で14時間かけてフランス・ボルドーに到着。
フランス・ボルドーは、月の港と呼ばれ美しい街並みは世界遺産に登録されとり、人口約24万人のフランス西南部の中心都市で世界的なワインの産地としてブドウ栽培が盛んです。
28歳の時にフランス人のアニーさんと国際結婚した藤井繁正さんは、夫婦の会話はフランス語でフランス・ボルドーでの2人暮らしは43年目だそうです。
現在69歳の藤井繁正さんは現在も仕事をしていることが判明。
指定された場所に向かった番組スタッフが見た物は、ある建物の中で剣道のしどうと自分の稽古をしていました。
「アソシアションケンドータラス」という剣道クラブで、およそ40名のフランス人に剣道の指導を行っている藤井繁正さんは、57年続けてきた剣道は七段の腕前でした。
フランスの剣道レベルは、欧州大会でも優勝者を輩出するほどの剣道強豪国で剣道人口では世界第5位です。
2018年国際剣道連盟調べの剣道人口では・・・
第1位 日本 約200万人
第2位 韓国 約53万人
第3位 台湾 約1万8000人
第4位 中国 約1万4000人
第5位 フランス 約6000人
第6位 アメリカ 約5400人
藤井繁正さんは、剣道を指導する時はフランス語で教えています。
生徒の中には、日本人で剣道七段から教えて貰えることから200km離れたトゥールーズから車で片道2時間半かけて毎週通っても価値があるとコメントしていました。
また、藤井繁正さんの妻・アニーさんも剣道歴40年以上で剣道三段の実力の持ち主です。
藤井繁正さんは、妻・アニーさんとの出会いは、剣道の教え子だったそうですよ。
2つの業界で日本とフランスの橋渡しをする同級生・藤井繁正の職業は
藤井繁正さんは、旧満州(現在の中国東北部)から帰国した大阪税関で働く父親と看護師の母親のもとで大阪府住之江に生まれて、大阪市立加賀屋小学校に入学してから小学6年生で剣道に出会いました。
少年剣士の活躍を描いた人気漫画「赤銅鈴之助」や時代劇でチャンバラが人気だった当時、試合に勝つ楽しさを覚えた藤井繁正さんは、剣道に熱中。
大阪市立加賀屋中学校に入学したのですが、剣道部が存在しませんでした。
藤井繁正さんは中学3年生の時に、剣道経験のある先生が来た事で剣道部が設立。
※間寛平さん曰く「藤井繁正さんが剣道部を作った」は勘違い
進学校の大阪府立住吉高等学校へ入学した藤井繁正さんは、剣道を続けながら将来の夢は英語の教師になろうと勉強も努力したそうです。
一年の浪人生活後に京都大学教育学部に進学を果たしてからも剣道漬けの毎日を送りながら英語教師になるために勉強も続け、大学4年生の時に掲示板に貼られていた教育実習の募集を見忘れて教育実習は出来ずに留年。
その頃に大学の後輩の父親を通じてフランス剣道連盟から剣道を普及する指導者をして日本人学生の募集の話が舞い込みました。
当初、英語教師を目指していた藤井繁正さんは、フランス語は第2外国語として勉強していましたが、藤井繁正さんの父親から「若い時には海外に行って来い」と言われて24歳の時にフランス行きを決意。
剣道を世界に広めるために伝道師としてフランスに渡り、生活費と住居はフランス剣道連盟から援助されながら、昼はフランス語の勉強、夜は剣道の指導を繰り返す生活だったそうです。
当時のフランスの剣道人口は1000人足らずでボルドーには剣道初段は1人で、フランス語も話せない絶望な状況から剣道普及活動をスタートして、持ち前の秀才ぶりを発揮して3年ほどで指導に必要なレベルのフランス語を習得。
28歳の時に剣道の教え子だったアニーさんと国際結婚と順調だった人生に試練が・・・。
剣道人口は思うように増えない事からフランス剣道連盟からの援助が終了したことで26歳にしてフランスで職を失いました。
フランス語の語学力を生かして当時の日本は重要な新市場として狙っていたボルドーのワインメーカーのワインのシッパー(輸出業者)のネゴシアン(ワインの醸造・販売・卸売などを行う)の募集広告を見て、日本との交渉役としてワインメーカーに就職。
平日はワインメーカーで仕事をして、剣道は週末に道場で指導という生活を送ることに。
翻訳とか通訳業務の需要があった事から41歳の時に17年の生活で培った語学力を生かして自宅で日仏の翻訳事務所を設立と同時にワインの醸造メーカーを退職。
2006年には裁判所から認定された裁判内容や会社設立などの法的申請に必要な書類を翻訳できる法定翻訳家に任命されて現在も活躍してる。
同級生の本名・間重美さんの記憶はあったものの人気芸人になているとは、つゆ知らず・・・あの頃の本名・間重美さんと芸人の間寛平さんが約50年の時と国境を越えて一致しました。
おまけ:同級生・藤井繁正の経歴に合わせて間寛平の経歴を解説
私立柏原高等学校(現・東大阪大学柏原高等学校)を卒業した間寛平さんは、喜劇役者を目指して様々な劇場を渡り歩いたり、新世界のストリップ劇場では幕間コントに出演していました。
20歳の時に吉本新喜劇の研究生として吉本興業に入り、同期の桂文珍さんらと共に芸人の下積み時代を送りました。
話芸とギャグセンスで才能が開花した間寛平さんは、24歳で吉本新喜劇の座長に就任して「アヘアヘウヒハ」や「かい~の」などヒットギャグを連発して新喜劇のスターになりました。
25歳の時には「ひらけ!チューリップ」で歌手デビューして100万枚超えの売り上げを記録して関西を中心に間寛平旋風を巻き起こした。
28歳になった間寛平さんは新喜劇の劇団員だった光代さんと結婚。
40歳の時に、東京に進出してブレイクのきっかけとなる番組「マジカル頭脳パワー!!」にレギュラー出演して知名度は全国区に。
2008年にはマラソンとヨットだけでせかいを一周する「アースマラソン」に挑戦するも途中で前立腺がんで一時中断するも病魔を克服して2年1ヶ月をかけて約40000kmという地球を一周する偉業を達成。